こころのやすらぎを唯一の目標として生きてみたら世界が変わり始めた。
人と触れ合うのが楽しい!
自分が生きていることを感じられる。
自分の気持ちを、何の評価もつけずにただ認められたら、
こころが穏やかになっていった。
わたしがわたしを受け入れたら、わたしがあなたとつながった。
キミノコエとワタシノコエ。あなたとわたしがつながっていく。。。
・アティテューディナル・ヒーリング(AH)ファシリテーター
・サポートグループ毎月開催
・キミノコエオリジナルワーク9月から毎月開催
〜こころのやすらぎを求めるあなたと寄り添うこと〜
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キミノコエ
「はじめてのフォーカシング」のお誘い
「はじめてのフォーカシング」 一日ワークショップ「フォーカシングに興味はあるけれど、なんとなく敷居が高くてよくわからない」
という方に朗報です!
村里先生のほかベテランの先生が、はじめての人向けのお試しフォーカシング体験ワークショップを開催してくださいます。
詳細や、申し込み方法を知りたい方はメールをください。
フライヤーを添付ファイリでお送りいたします。
講師:村里忠之先生(帝京平成大学准教授)
日時:2010年2月21日(日)10:00〜16:30
場所:アカデミー千石 学習室A・B
東京都文京区千石1丁目25-3
文京区立千石図書館内
地下鉄都営三田線 千石駅から徒歩3分
定員:20名
参加費:7,500円 (学生・日本フォーカシング協会会員の方は、7,000円)
プレゼント−BUMP OF CHICKEN−
BUMP OF CHICKEN というロックバンドの『プレゼント』という曲を聴いて、こんなことが浮かんできたので書き留めておきます。
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もしも、
傷ついて、泣きだしたい、
その、わたしの気持ちを
同じに感じ、わかってくれる人がいたなら、、、
悔しくて、悔しくて、全身に力が入ってしまうほどのやるせなさを、
その、わたしの気持ちを
同じに感じて、わかってくれる人がいたなら、、、
怖くて怖くて、逃げ出して、なかったことにしたいほどの怖さを、
その、わたしの気持ちを
同じに感じて、わかってくれる人がいたなら、、、
きっとわたしは、起き上がることができるだろう。
でも、、、
同じに感じてくれる人は
いない。
それをわかっているのは、
わたしだけ。
わたしが知っている。
だから、
わたしがわかってあげよう。
わたしが一緒に泣こう。
わたしが一緒に体を振るわせよう。
わたしが一緒に逃げ出そう。
ちゃんと わたしがわたしを 見てあげよう。
===============
興味のあるかたはお聴きください。
他にもBUMP OF CHICKENの詩は、こころに触れるものがたくさんあります。
藤原基央さん。ありがとう。
「続・怖れを手放す」刊行のお知らせです。
12月12日、「続・怖れを手放す アティテューディナル・ヒーリング入門ワークショップ〈ボランティア・トレーニング編〉」が刊行されます。
内容はボランティア・トレーニングの内容(一部抜いてあります)に、
ジェリーのメッセージと水島さんが新たに書き加えた部分があるそうです。

現在は予約を受け付けています。
わな?
9月だったかな。「傷ついた」という、悲しみに気づいたわたしでした。
その後、癒されていない、ある人との関係に気がつきました。
その人とは、一年に3回くらいしか会わないのだけど、
何か・・・ギクシャクとしたものがありました。
そして、そのことは、気になるのだけど、
あまりに長くその状態が続いていたので、
解決策がないように思われて、
「見ないように」していたように思います。
解決策がないように思われていた、ひとつの理由は、
「原因は、相手にある」と信じていたからでしょうね。。。
相手を変えることはできないですから、
無理、もしくは、その日を待つだけと思っていたのかもしれません。
先日ふっと、その人との関係に、ギクシャクしたものを感じ始めたのは、
いつの頃からだろう?と、考えました。
それは今を遡ること、28年くらいでしょうか。
人づてにその人が私のことを怖がっているということを聞いたときからでした。
それを聞いたとき、
「わたしは怖がられているのか。。。」
と思ったことを思い出しました。
それを聞くまでは、わたしはその人の前でいつも自由に振舞っていたし、
いつもぽかぽかした気持ちを味わっていました。
ですから相手も同じように思っていると疑っていなかったのです。
それがそうではなかったのだと、知りました。
そうですね。「傷ついていた」のですね。
でも、28年の間わたしがしてきたことは、
「もう二度と怖いと思われないようにする」ことだったのです。
その人を傷つけないようにとか、
その人が嫌がることは言わないようにしようとか、
その人のして欲しいことをしようとか、
そんなことばかり考えていたように思います。
自分のショックだった、傷ついた気持ちには、全く注意を向けていなかったし、
いつも、「また怖がられるのではないか」という怖れに脅かされていました。
先日「傷ついたわたし」「怖がっていると人づてに聞いたときにショックを受けたわたし」
に注意を向けてみました。
28年ぶりに、涙があふれてきました。
奥の奥のほうに追いやっていた「悲しかったわたし」を光の中に連れ出してあげました。
すると「わたしは怖がられる」と思っていたことがわかりました。
そしてそれは幻想で、真実存在していたのは、
「わたしを怖いと感じたその人がいた」ということだったのだとわかりました。
そして、わたしを怖いと感じたその人を、
ただ「そうだったの」と受け止めることができたのです。
パッツィの
「誰もわたしを悲しませたり、幸せにしたりすることはできないのです。」
の逆説バージョンですね。
「わたしが怖がれる存在」と自分の役割の台本を作ってしまっていたのですね。
この罠は、よくはまるものだと思います。
「嫌われた」とか、
「憎まれた」とか、
「ふられた」などと言う言葉を発するとき、
人は、自分は「嫌われる存在」や、「自分は憎まれる存在」や、「自分はふられる存在」という台本手に入れているのですね。
でもそれは幻想で、相手が「嫌いだと感じた」ということや、相手が「憎いと感じた」というこがあっただけなのですね。
それを間違わせてしまうのは、そのとき悲しかった自分をきちんと正面から見ないで、
「それを回避するには、二度と起こらないようにするのはどうすればいいか」
ということを頭で考え始めるからなのでしょうね。
そうなるともう、永遠幻と戦い続けることになってしまうのですね。
長い間、あなたをみないでいて、ごめんね。
気づかせてくれてありがとう。
愛しています。
罪悪感
よくスピリチュアル方面で、「不必要な罪悪感は、手放しましょう」
とかって、聞くけど、
前、それを聞いたときは、
「不必要な罪悪感」は、手放すべきなんだなと思った。
つまり、「必要な罪悪感」は持っているべきと思っていた。
でも、これは大きな間違いでした。
「罪悪感」は全て不必要なものでした。
考えてみれば当たり前のことですね。
わたしたちの本質は、あたたかい光。愛のエネルギー体なんですものね。
罪悪感というものは、「自分=悪い」と感じること。
ということは、罪悪感というものは自分がつくりあげている幻ということになりますね。
だけど心で感じることというものは、数学のようには割り切れないもの。
なかなか「全ての罪悪感は幻」と感じることが出来ないでいました。
でも今日友達と話をしていて、そう感じられるようになっている自分に気がつきました。
ありがとうございました。








